職業野球を追いかけて

引退・戦力外・自由契約になったプロ野球選手を紹介したり、トレードやドラフトなどの各種データを掲載するブログです。

南海の大柄な助っ人投手-ジョー・スタンカ

スタンカ ジョー・スタンカ Joe Donald Stanka

1931年7月23日生まれ

身長196cm 体重96kg 右投げ右打ち

オクラホマ農工大-ホワイトソックス-南海ホークス(1960〜1965)-大洋ホエールズ(1966)

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大柄な右腕。

1950年にドジャースに入団。しかし、その後はなかなか結果を残せず、1959年にようやく移籍したホワイトソックスでメジャーデビューを果たす。

その年のオフに南海へと入団。メジャーではたった2試合の登板しかなかったが、それでも当時の期待は大きかったようだ。

 

1年目は優勝こそ大毎に奪われたが、17勝を挙げ、31勝を記録した杉浦忠と共に主戦級投手として活躍を見せた。

さらに翌1961年は15勝を挙げてチームの優勝に貢献。日本シリーズでも6試合中5試合に登板するなど大車輪の働きを見せ、日本シリーズ敢闘賞を獲得した。

 

1961年の日本シリーズで語り草となっているのが第4戦。

この試合で3対2の1点リードで迎えた9回に4番手として登板したスタンカは、二死一塁の場面で巨人・藤尾茂を一塁への内野フライに打ち取った。しかし、一塁手の寺田陽介がまさかの落球で二死一、二塁に。

さらに続く長嶋茂雄を三塁ゴロに打ち取るも、ここで三塁手の小池兼司がファンブルし、二死満塁となってしまう。

2連続エラーで嫌なムードとなったものの、迎えた打者・宮本敏雄を2ストライク1ボールと追い込み、最後は外角低めに決まった球で見逃し三振……のように見えたが、球審・円城寺満の判定は「ボール」。

スタンカや捕手の野村克也、監督の鶴岡一人がこの判定に抗議するが判定は変わらず。

 

怒りに震えるスタンカは次の投球を宮本に打たれ、二者が生還。サヨナラ負けとなってしまった。この時スタンカは捕手の後ろにバックアップで周った際に円城寺と激突。これが円城寺への怒りから故意に行ったようにも見えた。

結局、このシリーズは2勝4敗で南海が敗北。「あの判定さえ無ければ……」と多くのファンが思い、スタンカも恨みを抱き続けたようだ。

 

悔しい思いをした日本シリーズの翌年は8勝10敗と負け越したが、1963年は14勝7敗と勝ち越し。さらに1964年は26勝7敗、勝率.788、防御率2.40の成績で最優秀勝率となり、シーズンMVPも獲得した。

無念を晴らしたい日本シリーズでも、7戦中4試合で登板。そのうち3試合が完封勝利というもので、第6戦、第7戦は連投で先発して完封という驚愕の力投を見せた。ちなみにこのシリーズでは阪神はバッキーを登板させており、外国人対決となっていた。

 

順調に活躍を見せたスタンカだったが、1965年(おそらくはこの年のオフ)に悲劇が訪れる。長男のジョーイくんが、風呂場のガス漏れ事故で一酸化炭素中毒となって亡くなったのだ。

愛する子どもの死にショックを受けたスタンカは、野球に打ち込める精神状態ではなかったようで、「日本にいれば悲しいことを思い出す」と言い、そのまま南海を退団し帰国。このまま引退かと思われたが、何があったのか翌1966年、大洋ホエールズに入団した。

 

しかし、やはりと言うべきかかつての輝きは失せており、6勝13敗、防御率4.16で負け越し、オフに再び退団。通算100勝こそ達成したものの、あまりにも悲しい幕切れとなってしまった。

 

引退後は自動車セールスマン、不動産業、刺繍会社の社長など様々な仕事を渡り歩き、最後は会計事務所を開いたそうだ。

2018年10月15日に死去。87歳だった。

 

前評判はストレートが速いというものだったが、実際に投げてみるとそこまで速くなく、むしろドロップやシンカーなどの変化球をコントロール良く投げ分けるタイプだったようだ。

 

※参考文献

【3月14日】1960年(昭35) スピードはこんなもん?“青い目の日本人”スタンカ、実は…

 

ハロー、スタンカ、元気かい―プロ野球外人選手列伝 (講談社文庫)

ハロー、スタンカ、元気かい―プロ野球外人選手列伝 (講談社文庫)